サッカーにおいて日常的に議論できる私たちイタリア人は実に幸せだと思う。アッレグリとサッリのサッカーにおける対比も話題のひとつだ。具体性と美しさ、実用主義とスペクタクル性という異なる要素について語り合うことができる。
だが最初に確認しておきたいことがある。「良いサッカー」というのは、どういったものを指しているのか。流動的でスピーディーな攻撃なのか、それとも合理的なサッカーなのか。個人的には、ファンを喜ばせることができるのが良いサッカーだと考えている。付け加えるなら点を取るのを目的とし、ゴールを奪う雰囲気を常に感じられるサッカーだ。
つまり、良いサッカーと呼べるものは複数の道があるということだ。サッリのようにボールを保持しながら巧みなパス回しで見る者を魅了する戦いもそのひとつ。強固な守備をベースにし、カンピオーネたちの創造性に期待するアッレグリのようなサッカーも同じだ。
複数の顔を使い分ける
ボール扱いに長けた選手が少ないチームで、わざわざショートパス主体の戦い方を選ぶ必要などない。それではファンは喜ぶどころか退屈してしまうだろう。現代のサッカーは1シーズンに多くの試合をこなす。だがそれぞれ違う内容の試合だ。90分の中でも状況は変わる。チームと監督は、その時の状況に応じて複数の顔を使い分けないといけない。
前線からボールを奪いにいける場面もあれば、重心を下げた方が効果的な時間帯もある。そういったものは自分たちの戦力次第であり、当然ながら対戦相手の力量によっても状況は異なる。悪いサッカーをした者が勝つ、良いサッカーをした者が負ける。その逆も含めて単純に結論を出すべきではない。サッカーの形は決してひとつではない。
組織とカンピオーネ
次に私の理想とするサッカーについて話をしよう。まず強固な組織を土台にして、そこにカンピオーネたちを同化させる。高い技量を持つ彼らがその才能を存分に発揮できれば、チームにとっても良い結果に繋がると考えているからだ。
指導者としてのキャリアを振り返っても、そうしたアイデアに沿って作ってきたチームは少なくない。例えばバティストゥータがいたフィオレンティーナ。バレンシアもそうだし、ローマではスクデットまでもう少しのところまでいった。レスターも同じだ。どのチームも点を取れる雰囲気を常に漂わせていた。
だがこの中にチェルシーも加えたい。これまで挙げたチームとは性質が異なるグループで、私はボール支配率を高めるサッカーを選んだ。そうしたプレーに長けた選手たちが揃っていたからだ。
サッリ派、アッレグリ派という分け方をするならば私はアッレグリに近い。だがサッリのようなサッカーも好きだ。巧みなボール回しによって1対1で仕掛けられる状況を作り、前線でいくつもの選択肢を生み出す。リヌス・ミケルスのオランダ代表も好きだった。だが適した選手がいないのに戦術だけ猿真似するようでは駄目だ。それでは成功しない。
勝てる戦術など存在しない
勝利に近い戦術など存在しないのだ。イタリアのサッカーが優れているのは、様々な戦い方で満ちあふれていることだ。90分の中でチームを変化させるには、相応の技量が必要になる。こういった部分でアッレグリが驚異的な指揮官であることは誰もが知っているだろう。戦い方を変化させることで、チームに新しいモチベーションも与えられる。
育成年代の選手たちに対して、過剰に戦術を教え込むのは避けるべきだとアッレグリは言っていた。私も賛成だ。若い選手たちには自由を与えて、技術やひらめき、創造性という才能を伸ばしてやるべきだ。イタリアを外側から見ている者として断言しよう。他の国ではイタリアほど戦術にこだわっていないよ。